ある人物がスティーブジョブスの自宅を訪れた時、あったのは寝る時用のマットレスとグランドピアノ、ポスター。たったそれだけだったという。当時すでに莫大な資産を持っていて、広い自宅であったにも関わらず。
社会派ブロガーちきりんさんがずいぶん前にこんなことを書かれていた。
「世の中は今、より所有しない時代へ向かってる。より所有しない生活こそが、より豊かで高度に発達した生活スタイルなんだと。そういう時代に向かっている気がします。」
「学生が必要なのは「教科書の必要箇所を読む」という使用価値だけなんだから、その“使用料”を払えばいいのであって、紙だろうとデジタルファイルだろうと「自分用」として所有する必要はないんだよね。」
Chikirinの日記:
“所有”という時代遅れより。
そうなのだ。所有することは本質ではない。所有しているものから「得たもの(知識など)」が本質であって、「所有していること(本棚に飾ってあること)」はまったく意味がないのである。
それを11月、引越しに至る過程で、まざまざと見せ付けられた。
一人暮らしのマンションから実家への引越しの際、実家で零悟の生活スペースを確保するべく父親が自分の本棚の整理をしてくれており、中断した状態のものを覗いたらどの作家だったかは忘れたが「文学全集」なるものが出てきた。ハードカバーに箱が付いた古書店でよく見かけるものだ。うちの父親は基本的に理系な人(60までシェイクスピアの存在を知らなかった…)なので、結構意外だったのだが、埃まみれになってしまいこんであった。
埃まみれとはいえ、本なわけだから当然読んでいるのだろう、日本文学なら読むのかもしれない、と思っていたら、一緒にいた母親が思いがけぬことを言う。
「これ…読んでないと思う。」
は?確かに並んでる文学全集は中途半端な本数だ。思想的な偏りすら見えてこないほど少ない。
「立派な本棚に文学全集を並べ、TVの取材を受ける著名人…そういう時代だったからでしょう。」
…つまり、「所有することがステータス」だったのだ。読んでなくていいのである。
一方零悟の部屋には本はもちろんビックリマンだの、カードダスだの、食玩フィギュアだのコレクターアイテムがあった。コレクター気質だし、オタクな観点から興味を共有できる人もいそうだが、これも大量処分した。集める過程は楽しいし、集めたものをずらりと並べて眺めるとそれなりに感慨はあるが、スペースがないしさすがにビックリマンという時代でもないだろう(汗)。何で楽しかったのか、という「本質」はなんとなくわかった気がするし、わかった時点で手放し時だろうと思ったので手放した。
実家の僕が使う部屋は二つに分かれており一つは狭いフローリング、もう一つは畳部屋でフローリングの部屋の2倍くらいの面積になっている。フローリングの方は作業部屋、畳のほうは寝室兼趣味(ってか本と音楽)の部屋として使う。図書館やレンタル店を上手く活用し現在持っている本も出来るだけ減らして行きたい。
ジョブスほどではなくとも過去ではなく未来をスマートに生きようと思う。
所有することがステータスなのではない。本質を血肉にしていることが実力と言う名のステータスなのだ。
そもそも創作者ならば創作に反映していかなくては意味がない。
この記事は11月4日にメモ書きしたものを元に12月9日現在まとめたものなのでブログ全体としてはちょっと時系列が混乱するかもしれないがここに書きとめておくのでご勘弁願いたい。
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